いじめを受けて子どもが自殺するニュースを聞くたびに
ものすごく胸が苦しいです。
いじめは大人の世界にも存在しています。
大人がいじめをするから、子どももするのです。
社会全体に広がるいじめ。
私達は、小さい頃から
「ああいう立派な人間になりなさい」
「あなたは落ち着きがない、もっと周りに合わせて生きなさい」
「お金があれば何だって出来る。お金が全てだ。」
「努力しないからいい学校、いい会社へ入れないんだ。
入れない人間は落ちこぼれだ」
「いいクルマに乗り、いい家に住むのが一番の幸せだ」
「あの子の方が勉強もスポーツも出来て上だ。」
なんて言われて育ちました。
小さい頃から私達は、ああしなさい、こうしなさい、
こうしないとダメな人間になる、など
縛られて、比べられて、抑制されて生きてきました。
周りの顔色をうかがい、自分がどう周りから見られているか
いつも気にしている。
そうやって育つことにより、時に自分を否定したり、
自分に自信がなくなったり、劣等感を持つようになります。
人と比べて自分はダメだ、または自分の方がいい。
そうやって優劣をつけて生きてきたのです。
いじめはそういうことが根本にあると思います。
自分にある劣等感を解消するためにするいじめもあります。
自分よりも下の人間を作ることで、
自分が安心したい。
自分のストレスのはけ口にしたい。
そういうことだと思うのです。
劣等感のあらわれを分かり易い例であげるとしたら、
だいぶ前のことですが、こんなことがありました。
ある休日の午後、うちの娘が自転車に乗る練習をしていました。
すると、同級生で同じクラスの女の子と偶然会いました。
その女の子には2つ下の妹がいました。
その妹も一緒です。
その妹はとっくに自転車が乗れます。
その妹は娘に、「自転車乗れないの?」と聞きます。
ほぼ、乗れるようになっていた娘は、
乗ってるところをその妹に見せると、
「な~んだ・・(乗れるのか)」とその子はガッカリした表情。
これも優劣の感情の表れです。
この子のお姉ちゃん、つまり娘の同級生の子は
勉強も出来、スポーツも出来、可愛いので人気者の子でした。
この妹は、きっと常にお姉ちゃんと比べられ、
小さいながらも劣等感を普段から持っているのだと思います。
だから自分より下に思えることを見付けて、
安心したいのです。
自分には自分の個性があり、
誰と比べることもしなくったっていいのに。
自分はありのままで素晴らしい尊い存在なのに。
それでも、周りに優劣をつけられた子どもは、
そうやって育つしかないのです。
そして最近すごく思うのは、
人は何かイヤな事をされた時、
やり返さないと気が済まない人が多いということ。
知り合いの方も言っていたのですが、
それは特に男性に多いです。
うちの娘は、ここ最近
いじめらしきことをされたことがありました。
された話を聞いた直後では、
私が直接相手の子を叱りつけて、
二度と意地悪しないように言い聞かせよう。
と思いました。
でも、しばらくして考えるうちに、
それをしたところで、
根本的な解決にはならないな。と思ったのです。
相手の子は、もしかすると
愛情をきちんと貰っていないのかもしれません。
自分の表現の仕方が、間違っていただけかもしれません。
そしてこの子どもも、劣等感や満たされない思いを
日ごろから持っているのだと思いました。
そう考えた時に、この相手の子どもが
逆に、相手に親切にすることで、
自分自身もシアワセな気持ちになってくれるように
なればいいなと思いました。
相手に親切にすることで、周りも自分もシアワセになることを
知ってくれればいいなぁと思ったのです。
そしてその子ども自体が、
毎日をシアワセに過ごして欲しいと。
なので先生に相談した時に、私はそう告げました。
叱るのもいいのですが、
人に親切にすることが気持ちいいと
思ってくれるようになってくれれば・・と。
だから、いじめた人間を断罪するだけでなく、
私はいつも、そういう社会自体を直す必要があると考えています。
いじめた人間は、もちろん悪いです。
いじめや犯罪をおかしてしまった本人には、
きちんと罪を認めて、心から反省させることが大切です。
でも、それを私達が あ~だこ~だとジャッジメントして、
相手を責めたって、根本的な解決には至らないと思うのです。
いじめ自体がなくなる、優しい思いやりのある世界。
お互いが優しさと思いやりを分け与えられる世界。
これに尽きると思うのです。
地域や社会全体で、
皆が子どもをあたたかく見守り、
育てていくことが必要なのです。
目には目を、歯には歯を。
これでは、何も解決にはならないし
根本的ないじめや犯罪は一切無くならないと思います。
「自分の子どもがいじめで自殺したり、殺されても
同じことが言えるのか」と言う方がいらっしゃいます。
もちろん、冷静ではいられないし
相手を憎んだり、相手にも同じ目に遭わせたいと願うかもしれません。
でも、それはその答えにはならないと思います。
問題をすり替えても、解決はしないからです。
自分がされたらどう・・とか考えるのも大事ですが、
そもそもそうならない社会を作ろうという話なのですから。
私が言いたいのは、皆が暮らしやすく、
優しく温かい社会になれば
いじめや犯罪がなくなる社会になるということなのです。
もういじめられて悲しく苦しい思いを抱えたまま、
自ら死を選んだりするような
悲しい世の中であって欲しくないのです。
どうしていじめられて死ななくてはならないのでしょうか?
どうして優しく弱い人間が、常に辛い思いをし、
我慢しなければいけないのですか?
こんな世界、違うと思いませんか?
それぞれが違う個性で生きて、
お互いを補い合い、助け合えばいいだけではないですか?
ちょっと最近思ったことがあるので、書きます。
私は最近、mixiアプリで「ふしぎな生き物 ふにゃもらけ」
というゲームを始めたのですが、
本当にそのシステムに感激しました。
ほとんどのアイテムを買うと、同じものが2つ付いてきて、
合計3つのアイテムになるのです。
なので、その買ったアイテムは
他のマイミクさんへ分けてあげられるのです。
欲しいものがあると、「欲しいものリスト」
というものに登録出来るのですが、
そのリストは相手のマイミクさんのものも見る事が出来、
そのアイテムを自分が持っていると
贈って喜ばれるというシステムなんです。
もちろん、相手が欲しいものリストに入れてないものを
贈ったっていいのです。
リストに入れられるのは10個のアイテムだけなので
違うものを贈ったとしても当然、喜ばれるのです。
アイテムはレベルが高くないと使えないものもあるのですが、
そうやってアイテムをプレゼントして貰えることにより、
そのレベルになるまでがとりあえずの目標になり、
またそのアイテムが使えるようになるのが楽しみになるのです。
私はこういうシステムって
ホントに素晴らしいな~と感じたのです。
そのふにゃもらけという宇宙人は、
私のところへ居候する代わりに、
バイトしてお金を稼いできてくれて、
好きなアイテムを私が買えるのですが、
レベルが低かったり、まだお金が貯まってない場合って、
欲しいアイテムを買えないじゃないですか。
でも、レベルが高かったりお金が貯まって買えた人が、
仲間にアイテムを分けたり出来る。
これこそ人間本来の優しさが表れてるな~と思ったのです。
自分が持っていて、分けられるものは分ける。
相手も、自分に分けてくれたりする。
お互いに持ちつ持たれつです。
レベルが低いうちは貰ってばっかりだけれど、
自分がレベルが上がるにつれて、買えるアイテムも増え、
以前プレゼントしてくれた人へ何かお返しも出来、
また新しくゲームを始めた人に分け与えたりも出来るのです。
同じ人への恩返しもいいですが、
また違う、新たにアプリを始めた人へ親切の輪を広げられる。
私はこういうのが理想だな~と思いました。
今の社会ではやりたくないような仕事もして、
満員電車に揺られて死んだような顔をして
行きたくもない会社へ行って
人間関係で気を使って・・
というような生活をしている人が多いです。
でも、もしこの世の中が少しずつ
自分たちが持っているもの、
技術や知識、思いやりなどを分かち合い、助け合えれば
色々な常識や概念に縛られなくなり、
皆が自由でシアワセに暮らせるのに・・。
このアプリのように、
お互いに分け与えられる世界。
地位や名誉、常識、周りの目、
お金などに縛られることがなくなれば、
自分が自分らしく生きられ、
自分が好きなように生きられる。
人がいがみ合ったり、憎みあったりすることもなく、
当然いじめなんて存在しない。
自分がやりたい事が出来、
当然、イヤな仕事をする必要もないので
会社にリストラされて路頭に迷ったり、
色々な事に悩み、死を選んだりすることも無くなるのに・・。
ーただの理想論だ。
それでも構いません。
1人1人が望むことは、のちに行動へと繋がります。
なのでとても大切なことなのです。
マザー・テレサの残した言葉に、
こんな言葉があります。
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思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
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まさしく、そういうことを気をつけなければいけないのだと思います。
1人1人の思想がプラスなエネルギーに変われば、
のちにその人自身の考え方を変えます。
そしてそののちにその人の口から出る言葉も変えます。
そしてそうすることによって、その人の行動も変えるのです。
いい現実世界をきっと築く礎になると思います。
だから「どうせそんな世界になんてなりっこない。」
なんて思いは今すぐ止めるべきです。
社会の根本を見直すということは
自分達1人1人が色々な物を掘り下げて、
広げて考える必要もあるかもしれません。
答えは至ってシンプルなものなんでしょうけど・・。
人々の心をすさんだものにさせているのは、
この今の社会の、奴隷のようなシステムそのものなのだと、
すでに気付いている人は、きっとたくさんいると思います。
そして自分が出来ることから始めるのが
一番手っとり早い方法なのかもしれません。
元東電社員の内部告発>>こちら
結構貴重な事が書いてあるので、
是非、興味がある方は読んで下さいませm(_"_)m
そして、何よりも注目したいのは、
最後に語られた部分です。
*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*
何かチェルノブイリの30キロ圏内にある
すごいきれいな泉を守った長老たちがいるらしいんです。
どうやって守ったかっていうと、僕、こんなに原子力のこと勉強して、
物理のこととかもある程度勉強したけども、目に見えない力ってのも絶対あるんです。
その30キロ圏内にあった泉を守った長老たちは、逃げなかったんです。
逃げずにその泉をどうやって守ったか。
祈りです。
だから、そう言っちゃうと信じる人も信じない人も、
どのぐらいの割合でいるかわかんないけども、
もしちょっとでも信じてもらえるんだったら、
朝、まず、福島第一が穏やかに眠りにつきますようにって祈りと、
あと、出てしまって、僕たちが使った放射能じゃないですか。
電気のもとだから。
それが、愛と感謝の思いによって消滅して、
無毒化するようにという祈りで、何とかみんなで力を合わせて、
次の世代に伝えてもらえたらなって思います。
*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*
この泉には、放射線物質が一切検出されませんでした。
確かに、人の祈りというものは、
ものすごいプラスなエネルギーを発揮するようですね。
私も祈りなんて通じるの?と思っていたのですが、
こういう科学で説明の出来ない事が実際に起きているわけですから、
やってみない手はないな。と思うのです!
なのでもし「やってみてもいいかな」って思う方がいたら、
祈ってみませんか?
いくら原発が、私たちや地球によくないものだとしても、
今まで私たちは、散々原発から作られる電気で生活し、
放射線物質、ウランとプルトニウムにお世話になっていたわけです。
そのエネルギーに対しての感謝は忘れてはいけないですね。
そのウランとプルトニウムも、
人間によって無理やり爆発させられ、悲鳴を上げていたのです。
そう思えば、慈悲と感謝の気持ちがわいてきませんか?
人の祈りというものは絶対に通じる。
そう信じて、是非祈ってみて下さい。
それが私たちのためにもなるのです.。.:*・°☆
※こういう事は、信じない人には全く意味をなさないので
どうぞスルーして下さい。
※長文なので、何度か自分でも読み直し、
うまく伝わっていないような部分は書き直して修正しています。
Twitterで最近私は、放射線情報を目にする機会が多くなり、
ネットなどで調べていくうちに危機感を持つようになりました。
でも、こういう風に気を付けるようになった人に対して、
必ず出てくるのが「いちいち神経質すぎではないか」という意見です。
私はそういう意見に遭遇する度に、正直驚きます。
ご本人の危機感のなさと、無頓着さに。
目に見えない=どうでもいいことにはならないと思います。
目に見えないからこそ、私は気を付けたい。
気を付けて、出来うることをした上での
「気にしない」話だと、私は思います。
そして、私には私の考えがあり、感じることがあるのです。
気にしすぎでは・・という意見は、
子どもがいない独身の人なら、当たり前の感情かもしれません。
いや、言い方に語弊があっては困るので
悪いようにとらないで欲しいのですが、
身近(親戚など)に子どもがいない人。
または身近にいても、子どもに興味がない人。
または、守るべき家族を持っていない。(養っていない)
そういう人のことです。
ひとくくりにしているわけではないので、誤解なさらないで下さい。
もちろん、普通にそのような状況じゃなくても、
子どもを心配して下さる方はたくさんいらっしゃいますよ。
子どもが生まれると、人生観や考え方が本当にガラっと変わります。
私もダンナもそうでした。
もし、今まだ私達に子どもがいなかったら、
そういう人達と同じ意見を言ったかもしれません。
私も体験したからこそ持てた感情だと思うので、
ましてや、まだ子どもを育てていない人に、
私達の今の考え方を理解しろというのは、
到底ムリな話なのだと感じます。
人は自分が実際に体験しないと分からない事がほとんどです。
人は同じ経験なしに対等に物事を考えられる場合など、
ほとんどないのかもしれません。
そういう人達(指摘をしてくる人)に、
同じ土俵に立って私を理解してくれとも思いませんし、
その人には、その人の学んでいくべき「人生」があるのではないですか。
なれば、私が神経質に子どもの被曝を気にするのも、
私の自由ではないですか?
=私の感情が分からない人の私への干渉は、
大きなお世話以外の何物でもないのです。
それに対して、ご自分以外に守るべき人がいないと思っている人は、
ご自愛なさっていればいいと思うのです。
ただ、その狭い視野で人に物を言うなよ、と。
私は、子どもの健康が、
子どもの体が一番大事なのです。
自分の子どもというのは大前提ですが、
本心から言えば、「日本の子ども全員」という気持ちです。
子どもは背が低い分、
普段ホコリと同じ高さぐらいにある放射線を、
大人よりも被曝しやすいんです。
だから、出来れば自分の子ども以外にも、
校庭とかで遊ぶ時なんかマスクさせたいし、
砂場とかで遊ばせたくない。
雨に濡れさせたくないし、手洗い・うがいも徹底させて
牛乳なんて飲ませたくないです。
大人(学校や社会)が子どもの被曝を気にしない
=子どもの被曝量を増やすことになるのです。
東京では今、周りを見る限り、
子どもがいたって、放射線を気にしてない人が大部分です。
東京で、今マスクをして歩いている人自体、
何割ぐらいいるのでしょうか。
娘の通う学校では、うちの娘だけです。
マスクをして通っている子どもは。
それでも私はマスクをさせて通わせています。
娘は文句言わずにマスクをして行ってくれています。
せっかく子どもという、大事な存在がいるのに、
無知や無関心が、子どもを危険にさらすことだってあるのです。
今、一番の被害者は、子どもなんです。
子どもが一番被曝しちゃうんです。
子どもは、自分ではどうにも気を付けられないんです。
親から出されたご飯を食べて、
どこの産地のものか分からない出された給食を食べ、牛乳を飲み、
学校では外で遊びなさいとマスクもせずに外へ出され・・・。
原発を止めても困らない!
mixiからの引用です。
以下
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【転送・転写・拡散、大歓迎】
原子力発電の専門家のご著書から抜粋いたします。
京都大学原子炉実験所の小出裕章先生が昨年の12月12日に出版された
『隠される原子力 核の真実』(創史社刊)P105~
日本では現在、電力の約30%が原子力で供給されています。
そのため、ほとんどの日本人は、原子力を廃止すれば電力不足になると思っています。
また、ほとんどの人は今後も必要悪として受け入れざるを得ないと思っています。
そして、原子力に反対すると「それなら電気を使うな」と言われたりします。
しかし、発電所の設備の能力で見ると、原子力は全体の18%しかありません。
その原子力が発電量では28%になっているのは、
原子力発電所の設備利用率だけを上げ、
火力発電所のほとんどを停止させているからです。
原子力発電が生み出したという電力を
すべて火力発電でまかなったとしても、
なお火力発電所の設備利用率は7割にしかなりません。
それほど日本では発電所は余ってしまっていて、
年間の平均設備利用率は5割にもなりません。
つまり、発電所の半分以上を停止させねばならないほど余ってしまっています。
ただ、電気はためておけないので、
一番たくさん使う時にあわせて発電設備を準備しておく必要がある、
だからやはり原子力は必要だと国や電力会社は言います。
しかし、過去の実績を調べてみれば、
最大電力需要量が火力と水力発電の合計以上になったことすらほとんどありません。
電力会社は、水力は渇水の場合は使えないとか、
定期検査で使えない発電所があるなどと言って、
原子力発電所を廃止すればピーク時の電気供給が不足すると主張します。
しかし、極端な電力使用のピークが生じるのは
一年のうちの真夏の数日、そのまた数時間のことでしかありません。
かりにその時にわずかの不足が生じるというのであれば、
自家発電をしている工場からの融通、
工場の操業時間の調整、そしてクーラーの温度設定の調整などで十分乗り越えられます。
今なら、私たちは何の苦痛も伴わずに原子力から足を洗うことができます。
※発電量についての計算は、政府統計局のデータを参照
http://www.stat.go.jp/data/nenkan/10.htm
※最大需要は電気事業連合会の統計データから